浅間神社・旧富岡製糸所等散策


この度、次の企画(2020年11月25日(水)、26日(木)の浅間神社・旧富岡製糸所等散策)に参加しました。11月25日(水)に富士河口湖町にある「冨士御室浅間神社」、「河口浅間神社」に行き、石和温泉に宿泊しました。
11月26日(木)に、石和温泉地域にある「甲州天然石工房彩石の蔵」見学後、群馬県富岡市にある世界遺産「旧富岡製糸所」を見学、その後群馬県沼田市にある「吹割の滝」を見学しました。これ以降の行動は次に纏めます。ここでは、上記の様子を紹介いたします。


冨士御室浅間神社

当神社は、山梨県南都留郡富士河口湖町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある浅間神社の一社。旧称小室浅間明神。富士山山中最古の神社とされる。
「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。
境内は奥宮(本宮跡地)と里宮から成る。祭神は「木花咲耶姫命」。
当神社は、文武天皇即位3年(699年)藤原義忠公により祀られた。延暦19年(800年)噴火のため炎上したが、坂上田村麻呂卿が蝦夷征服の奉賛として造営され、後、幾たびかの修造があり、大永5年(1525年)武田信虎公が修復、当社崇敬のあまり甲府古城と当社社門を南北相対向いしめ、以って朝夕遥拝の便を図り、武田家の祈願所となる。
武田信玄自筆の信玄公御息女安産所祈願文、自刻の座像・武田坐不動明王をはじめ、富士北麓の古代記録「勝山記」等数多く残されています。
(参考)富士山本宮浅間大社

静岡県富士宮市にある神社。式内社(名神大社)、駿河国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国に約1,300社ある浅間神社の総本社であり、富士信仰の中心地として知られる。境内は広大で、本宮社地で約17,000㎡になるほか、富士山の8合目以上の約385万㎡も社地として所有している。富士山を神体山として祀る神社であり、境内は以下の2宮(本宮:富士山南麓の富士宮市街地、奥宮:富士山頂上)からなる。
本宮の本殿は徳川家康による造営で、「浅間造」という独特の神社建築様式であり、国の重要文化財に指定されている。また、本宮境内には富士山の湧水が湧き出す「湧水池」があり、国の天然記念物に指定されている。
大鳥居 西鳥居
参 道 随神門
里宮社拝殿・本殿 社務所
本宮本殿

現在の本宮本殿は、慶長17年(1612年)に徳川家の鳥居成次によって建てられたものです。その後4回の大改修を経て、1973年(昭和48年)に富士山二合目から里宮に隣接地へ移築された。
構造は、一間社入母屋造り、向拝唐破造りで、屋根は檜皮葺銅板葺であり、桃山時代の特長を持っている。国の重要文化財に指定されている。
本宮拝殿 本宮本殿
本宮本殿側面 本宮本殿付近の紅葉
武田信玄公御祈願所の石碑 本宮付近の石碑

百福の龍宝珠


上昇、隆盛を意味する龍で宝珠を象ることで、

国家・地域の繁栄を祈願したと言われております。

また、宝珠は災難を除き、濁水を清くする徳がある

とされており、

祈ることで全ての福が授かると言われております。

神使の撫牛


先ず自身の身体の悪い所を撫でてから、
牛の同じところを撫でることで病を治す病気平癒の
牛とも言われております。

また、より願いを込めて撫でることにより、撫でた所に御利益があると言われ、学業成就は頭や角を、
子授け安産は腹の部分を撫でると良いとされております。
御水舎 勝山歴史民俗資料館
河口湖 (バスの車内から)
河口浅間神社

当神社は、山梨県南都留郡富士河口湖町にある神社。富士山が世界遺産に登録されるにあたり、富士山の具体的価値を証明する構成資産の一つとなった河口浅間神社。富士山の北麓側では初めて建設された。富士山の神である浅間大神を祀る神社と伝えられています。
当神社は、貞観7年(865年)に富士の噴火の怒りを鎮めるために勅命によって建てられたが、慶長11年(1606年)焼失、翌年領主鳥居土佐守成次が再建する。この本殿は一間社流造りで、唐破風付の向拝を備えた折衷様の建物で宮大工関善左衛門尉、藤原家継らの手で完成した。
境内には樹齢1200年以上の7本杉があり、7本の内2本は「縁結びの杉」として人気があります。
1000年以上たつ今でも、富士山の神を祀る神社として建ち続けています。
神社入口 大鳥居
参 道 随神門
拝 殿 本 殿
手水舎 出雲社
山宮社(左側)、諏訪社(右側) 連理の楓(連理とは、別々の木が重なって一つになる意で、夫婦、男女の仲睦まじいことをいう。)
7本杉(山梨県指定天然記念物)

境内に立つ7本の御神木は、反時計回りで(1)~(7)以上まで番号と名前がつけられており、いずれの杉も樹高40mの巨木で、樹齢は1200年を超えているといわれる。一号杉は、御爾(みしるし)杉または母衣懸杉と呼ばれ、河口浅間神社の拝殿の目前に立っている。(2)産謝、(3)齢鶴、(4)神綿、(5)(6)二柱の杉(イザナギ、イザナミ)、(7)天壌(てんじょう)
7本杉の内の一号杉「御爾」
石和(いさわ)温泉

山梨県笛吹市の旧東八代郡石和町地域にある温泉。泉質は、アルカリ性単純泉の無色無臭であり、
PHは8.5~9.5程度とされる。
1956年(昭和31年)に採掘し源泉が湧出後、各所で湧出し新しい温泉街が出来ました。
石和温泉「ホテル石庭」の庭園の様子
甲州天然石工房彩石の蔵

山梨県の地場産業である「宝石研磨と宝飾業」は世界でもトップレベルの技術の高さを誇ります。そのため、世界各地より希少な天然鉱石が集まってきます。
大水晶 天然鉱石
館内の展示物 武田信玄公像
旧富岡製糸所

明治3年、明治政府は近代国家設立のため、殖産興業政策に基き西欧の先進技術を導入して本格的な器械製糸工場を建設する計画を立てました。
その当時、生糸は貿易で需要が高く、外貨獲得のため重要な輸出品だったのです。政府が高品質な生糸を大量生産できる器械製糸技術を国内に広めるために設立した官営模範製糸工場。それが富岡製糸場です。
工場建設にあたり、技術指導には器械製糸の先進国フランスの技術者を招き、また技術伝播のため全国から伝習工女を募りました。富岡製糸場は明治5年10月に操業を開始。その後、日本各地には富岡製糸場に倣って器械製糸工場が建てられ、富岡製糸場で新しい製紙技術を学んだ工女の中には郷里に設立された器械製糸工場で活躍する者もいました。
富岡製糸場は明治26年に民営化され、三井家、そして原合名会社へと経営が移り、昭和14年から昭和62年に操業を停止するまで片倉工業により経営されました。その間、一貫して製糸工場として稼働し続けました。現在、操糸所には操業停止まで使われていた自動操糸機がそのまま保存されています。
富岡製糸場の操業の歴史は、すなわち日本の近代製糸発展の象徴なのです。
平成17年、富岡市が保存・管理を引継ぎました。現在、富岡製糸場は国の大切な文化財であると同時に、平成26年には「富岡製糸場と絹産業遺産群」としてユネスコ「世界遺産一覧表」に記載され、その価値は国際社会にも認められました。

(建造物について)

操業に当たって建てられた主要な建物群は木骨煉瓦造という工法で建てられています。これは幕末にフランス海軍の協力によって造られた横須賀製鉄所に導入された技術で、富岡製糸場にはこの木骨煉瓦造の建物群が当初の位置に良好な状態で残ります。また、製糸に欠かせない大量の水を貯める巨大な鉄製水槽や煉瓦積みの地下排水溝など、明治初期の貴重な生産施設が残ります。

約104mある東西2棟の置繭所と、約140mの操糸所が「コ」の字形に配置され、その内側に蒸気エンジンとボイラーが置かれた蒸気釜の所が建てられました。「コ」の字の外側にはフランス人技術者用の宿舎として3棟の洋館と工女のための寄宿舎が建ちました。これらのうち、工女寄宿舎以外は今も良好に残り、設立当初の様子を今に伝えます。
建築にあたってはフランス人技術者の設計・指導のもと西欧の近代的技術が導入された一方、江戸時代から続く日本の伝統的技術が用いられ、建設現場では日本人大工や職人が活躍しました。
東置繭所(国宝)

明治5年(1872年)に建てられた。長さ104.4m、幅12.3m、高さ14.8m。1階は事務所・作業所などとして使い、2階に乾燥させた繭を貯蔵しました。建物は、木材で骨組みを造り壁に煉瓦を用いた「木骨煉瓦造」という工法で建てられました。使用された煉瓦は、日本の瓦職人が甘楽町福島に窯を築いて作りました。煉瓦積みの目地には下仁田町の青倉、栗山産の石灰で作られた漆喰を使いました。また、礎石には甘楽町小幡から切り出された砂岩が使われました。
旧富岡製糸場入口 記念碑の奥が東置繭所
東置繭所の様子
東置繭所1階の展示物

西置繭所(国宝)


明治5年(1872年)建築。長さ104.4m、幅12.3m、高さ14.8m。
東置繭所と同様、2階を繭の貯蔵庫として使用しました。
建物の構造・大きさは、ほぼ東置繭所と同じです。

1階部分は当初、蒸気機関の燃料用の石炭を置く場所や繭をより分ける場所などとしても使われました。
鉄製大貯水槽 煙 突

ブリュナエンジン


富岡製糸場の設立の際に導入された横型単気筒蒸気機関(エンジン)の事です。
繰糸器(繭から糸を繰る器械)と揚返器(繰った糸を巻き返す器械)の枠を回転させる動力として蒸気缶(ボイラー)とともに蒸気釜所に置かれていました。
富岡製糸場の設立指導者であるポール・ブリュナによって導入されたため、ブリュナエンジンと呼ばれています。
蒸気釜所(国指定重要文化財、明治5年建築)

検査人館(重要文化財)


明治6年(1873年)建築。
生糸の検査などを担当したフランス人男性技術者の住居として建設されました。

後に改修され、現在は事務所として使用されている。2階には、皇族や政府の役人が訪れた際に使用された「貴賓室」があり、大理石製のマントルピースは、ほぼ当時の状態で残されています。

女工館(重要文化財)


明治6年(1873年)建築。

日本人工女に、器械による糸取の技術を教えるために雇われたフランス人女性教師の住居として建設されました。

ベランダの天井には板が格子状に組まれ、当時の日本建築にはない特徴が見られます。


高圧変電所


昭和23年(1948年)建築。

送電線から引き込んだ高電圧の電気を、

工場内で使用する電圧に

変える施設です。
繰糸所(国宝)

明治5年(1872年)建築。長さ140.4m、幅12.3m、高さ12.2m。
繰糸所は、繭から生糸を取る作業が行われていた場所です。創業当初はフランス式の繰糸器300釜が設置され、世界最大規模の製糸工場でした。小屋組には「トラス構造」という従来の日本にない建築工法を用いています。そのため、建物内部は中央に柱のない広い空間が保たれています。
さらに採光のための多くのガラス窓や、屋根の上に蒸気抜きの越屋根が取り付けられました。
現在は、昭和41年以降に設置された自動繰糸機が保存されています。
繰糸所入口 繰糸所内部
繰糸所の自動繰糸機
首長館(ブリュナ館、重要文化財)

明治6年(1873年)建築、延床面積320坪(約1,056㎡)。
指導者として雇われたフランス人ポール・ブリュナが家族と暮らしていた住居です。
後に建物は、宿舎や工女に読み書きや裁縫などを教える学校として利用されました。これは、企業内教育の先駆けといえます。建物は木骨煉瓦造で建てられ、高床で回廊風のベランダをもつ風通しの良い開放感ある造りになっています。また、床下には、建設当時造られた煉瓦造の地下室が現在も残っています。
診療所・病室(昭和15年(1940年)建築)

片倉経営期に建てられた診療所及び病室です。診療所は、中廊下の両側に診察室や看護婦室が並びます。病室は、8~10畳の部屋が5室、北面に廊下、南面に縁側、東西に便所を備えています。
診療所 病 室
寄宿舎 旧富岡製糸場記念石碑(国指定史跡)

行啓記念碑

昭和18年(1943年)建立。高さ4.6m。
明治6年(1873年)6月、明治天皇の皇后と皇太后が富岡製糸場を行啓されました。
この記念碑は、行啓70周年を記念して片倉経営期の建立されたものです。
台石には、三波石(結晶片岩)が使われており、石垣は、行啓を契機に工女たちに下賜された扇子をかたどっています。碑面には、行啓の際に皇后が詠まれた短歌
「いと車、とくもめくりて大御代の富をたすくる道ひらけつつ」が刻まれています。
吹割の滝

群馬県沼田市にある滝。高さ7m、幅30m。奇岩が1.5kmに渡って続く片品渓谷(吹割渓谷)にかかる。河床を割くように流れ、そこから水しぶきが吹き上げる様子からこの名が付けられた。
900万年前に起こった火山の噴火による大規模な火砕流が冷固した溶岩凝灰岩が片品川の流れによって侵食されてきたV字谷にかかり、そこに向かって三方から河川が流れ落ちるその姿から
「東洋のナイアガラ」と呼ばれている。
   
 上 流 上流から滝に 
   
吹割の滝 の様子
   
 下流の奇岩  六角堂




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