住吉大社と淡路島紀行


住吉大社

住吉大社は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の一つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある約2,300社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。4棟とも、江戸時代後期の文化7年(1810年)造営。
本殿は、大阪湾の方角に西面して鎮座する。海の神である筒男三神と神功皇后を祭神とし、古くは古墳時代から外交上の要港の住吉津・難波津と関係して、航海の神・港の神として祀られた神社です。
古代には、遣唐使船にも祀られる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めた他、江戸時代には広く庶民からも崇敬された。摂津国の一宮として大坂で代表的な神社であるのみならず、旧官幣大社として全国でも代表的な神社の一つである。
社殿は、本殿4棟が「住吉造」と称される古代日本の建築様式で国宝に指定されている他、幣殿・渡殿、石舞台、高蔵など多くの建物が国の重要文化財に指定されている。神宝としては、数少ない古代文書の一つである「住吉大社神代記」は国の重要文化財に指定され、木造舞楽面など多数が重要文化財・大阪府指定文化財に指定されている。また、伝統的な神事を多く残すことでも知られ、特に御田植神事は全国でも代表的なものとして国の重要無形民俗文化財に指定、夏越大祓神事は大阪府選択無形民俗文化財に選定されている。
本殿4棟の祭神は次の4柱で、4本宮に1柱ずつ祀られている。
・第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)
・第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)
・第三本宮:表筒男命(うわつつのおのみこと)
・第四本宮:神功皇后(じんぐうこうごう)    
本殿はすべて西(大阪湾)向きで、第一本宮から第三本宮までは直列、第四本宮と第三本宮は並列に配置されており、全国的にも大変珍しい建築配置です。

「住吉造」とは
屋根は檜皮葺で直線的な切妻造。出入口は妻入りと呼ばれており、屋根の両端が正面に向いているのが特徴です。内部は前後2室に分かれています。回廊がないのも特徴です。
柱は朱(丹)塗り、板壁は白色の胡粉塗りです。


右から本殿(国宝、住吉造)、渡殿(重要文化財)、幣殿(重要文化財)
第一本宮(右から幣殿、渡殿、本殿) 第一本宮(左から幣殿、渡殿、本殿)
第一本宮金扉と渡殿 第一本宮の幣殿
第二本宮(右からほんでん、渡殿、幣殿) 第二本宮幣殿
第二本宮金扉と渡殿 第二本宮幣殿(参拝の様子)
第三本宮(右から本殿、渡殿、幣殿) 第三本宮幣殿
第三本宮金扉と渡殿 第三本宮幣殿(参拝の様子)
第四本宮(左から本殿、渡殿、幣殿) 第四本宮幣殿
第四本宮金扉と渡殿 第四本宮幣殿
西大鳥居
(江戸時代前期造営、国の登録有形文化財)
「遣唐使進発の地」の石碑
西大鳥居付近の左右(北・南)の石燈籠(奉納されたもの)
西大鳥居からの参道 手水舎(江戸時代末期造営、兎の石像がある。)
絵馬殿(西大鳥居参道の左右(南・北)にある。両殿ともに国の登録有形文化財、1929年造営)
反橋(太鼓橋)
(石造の脚は慶長年間(1596~1615年)造営、現在の橋は昭和56年(1981年)再営。明治期は神専用の橋で参拝者は渡れず、手前の便宜橋(現在は撤去)を利用した。右の写真は水辺に投影されている。高さは4.4m。)
角鳥居(住吉鳥居)と幸寿門
(両方とも国の登録有形文化財、角鳥居(江戸時代末期造営、幸寿門は江戸時代前期造営)
御祈祷受付、御守授与所
神輿舎 神楽殿
末社 盾社
(祭神:武甕槌命)
末社 侍者社(おもとしゃ)
(1822年造営、祭神:田裳見宿禰、市姫命)
摂社 若宮八幡宮
(祭神:応神天皇、武内宿禰、国の登録有形文化財)
五所御前(五大力)
(社伝では、神功皇后が住吉神の奉斎場所を探す際に、3羽の鷲が杉の木にとまったので、この地を鎮座地に定めたという。

高蔵

第一本宮の裏手(東側)には、高蔵2棟が南北に並んで建てられており、それぞれ南高蔵(左写真の右側)、北高蔵と称される。いずれも桃山時代の慶長12年(1607年)の造営で、大阪府内にある指定文化財の蔵のうちでは最古になる。
形式は桁行三間・梁間二間、板校倉造の高床式倉庫で、上部は寄棟造、屋根は本瓦葺、釘を1本も使わずに建てられている。2棟は国の重要文化財に指定されている。
現在は、祭具貯蔵庫として使用されている。
南門(四脚門)
(江戸時代初期の慶長12年(1607年)造営。重要文化財)
東楽所(西側は西楽所)
(南門と同様豊臣秀頼の再興。重要文化財)
石舞台
(江戸時代初期の慶長12年(1607年)造営。重要文化財。「日本三舞台」の一つ。一辺6m、舞楽を演じる時は木製の高欄を取付る)
南手水舎
(江戸時代末期に造営。国の登録有形文化財)
末社 貴船社(きふねしゃ)
(祭神:高龗神、江戸時代後期造営)
(国の登録有形文化財)
末社 立聞社(たちぎきしゃ)
(祭神:天児屋根命、文政11年(1828年)造営)
(国の登録有形文化財)
摂社 船玉神社
(祭神:天鳥船命、猿田彦神)
(明治前期造営、国の登録有形文化財)
摂社 志賀神社
(祭神:底津少童命、中津少童命、表津少童命)
(江戸時代中期造営、国の登録有形文化財)
摂社 大海神社
(祭神:豊玉彦命、豊玉姫命)
(宝永5年(1708年)造営、重要文化財)
摂社大海神社西門

(江戸時代前期造営、重要文化財)
大海神社の手水舎「玉の井」 伊勢神宮遥拝所「大神宮」
御文庫
(江戸時代中期造営、国の登録有形文化財)
末社 新宮社
(祭神:伊邪那美命、事解男命、速玉男命)
末社 八所社
(祭神:素戔嗚尊)
末社 今主社
(祭神:国助霊神(第48代神主津守国助))

末社 斯主社(このぬししゃ)
(国盛霊神(第43代神主津守国盛))
末社 薄墨社(うすずみしゃ)
(祭神:国基霊神(第39代神主津守国基))
末社 招魂社(旧護摩堂)
(祭神:諸霊神、江戸時代前期の1619年造営、重要文化財)
末社 五社
(祭神:大領、板屋、狛、津、高木、大宅、神奴祖神)
(1964年造営、国の登録有形文化財)
末社 星宮
(祭神:国常立命)
末社 種貸社(たねかししゃ)
(祭神:倉稲魂命)
末社 海士子社(あまごしゃ)
(祭神:鵜茅葺不合尊)
末社 児安社(こやすしゃ)
(祭神:興台産霊神)

誕生石


誕生石は、薩摩藩祖の島津忠久の誕生地と伝承される。

その母の丹後局は、源頼朝の寵愛を受けるも
北条政子に捕まるが、本田次郎親経により
難を逃れて住吉社に至り、
この地で忠久を産んだと伝える。
神館西門(1828年造営、国の登録有形文化財) 神馬像

天皇陛下(昭和)御在位六十年奉祝
記念歌碑




「いくさのあと いたましかりし町々も

わが訪ふことに

立ちなほりゆく」
南脇参道角鳥居
(大正8年(1919年)造営、国の登録有形文化財)
南脇参道
巨大石燈籠(奉納されたもの) 神 木
兵庫県立淡路島公園

神戸淡路鳴門自動車道の淡路ICの西、標高80~200mの丘陵地に広がる面積1488haの自然豊かな公園です。高速道路を降りずに直接アクセスできます。
目の前に明石海峡大橋と須磨・舞子・六甲の山々が見渡せるロケーションの良さが自慢で、見渡せばはるか播磨灘から紀淡海峡まで、広範囲なパノラマが広がります。夜は対岸の神戸から明石にかけて広がる100万ドルの夜景が楽しめます。
地ビールの飲めるレストランやカフェ、大型土産物店などがあるハイウェイオアシスゾーン(オアシス館・テラスガーデン・花の谷)、森のゾーン、交流ゾーンの3つのゾーンに多彩な楽しみが盛りだくさんです。
県立淡路公園案内図
(①オアシス館、②花の谷、③レストラン、④アジサイの谷、⑮急流スライダー、⑰芝生のレスト、⑳塩屋橋)
メーン施設「オアシス館」
 
明石海峡大橋や神戸~明石の街並み、六甲の山々等の景観

フタバガキの板根



この板根は、東南アジアの熱帯雨林から運ばれてきた実物で「淡路花博」の「緑と都市の館」に展示されました。
高温多湿で有機物の分解が早い熱帯雨林では、地表から約30㎝に栄養分が集中します。
熱帯雨林の樹木は、浅い表土から養分を吸収するため、広く浅く根を張ります。
そして、高さ50mにもなる巨大な幹や樹幹を支え、浅い根を補強するため板根となります。
「交流ゾーン」に行く道路脇などのメタセコイヤの紅葉
昭和池
昭和池に架かる「塩屋橋」(国の登録有形文化財) 公園内にある「手塚治虫書店」
ナルト忍里
(大人気忍者アニメ「ナルトとボルト」をテーマとしたエリア。作品の世界観を体験しながら里の「忍」になりきって修行や謎解きを体験。)
高田屋嘉兵衛について(高田屋顕彰館・歴史資料館

高田屋嘉兵衛は、明和6年(1769年)淡路島洲本市五色町の貧しい農家の長男として生まれました。
幼い頃から海に親しみ船を愛した嘉兵衛は、やがて優秀な船乗りとなり、西廻り(日本海)航路で交易する廻船問屋として海運業に乗り出します。
函館に地歩を固めた嘉兵衛は、幕府の要請を受けて、エトロフとクナシリ間の航路を発見したり、新たな漁場を開くなど、北方の開拓者としても活躍しました。
嘉兵衛が北方で活躍していた頃、通商交渉のもつれに端を発した双方の誤解から、ロシア船のゴローニン艦長が幕府警備隊に捕らえられるという事件がおこりました。副艦長リコルドは、艦長の消息を聞き出そうと偶然近くを通りかかった嘉兵衛の船を捕らえ、カムチャッカへ連行抑留します。

囚われの嘉兵衛とリコルドは同じ部屋で寝起きした。この両者の信頼関係が、遂にゴローニン提督の釈放に至る両国の和解を成し遂げました。
晩年は、故郷淡路島に戻り、港や道路の修築など、郷土の為に力を尽くし、文政10年(1827年)、自宅で静かにその生涯を閉じました。
小説『菜の花の沖』を書いた作家司馬遼太郎は、嘉兵衛をこよなく愛し、「今でも世界のどんな舞台でも通用出来る人」と称えています。
高田屋顕彰館 日露友好の像
(高田屋嘉兵衛とゴローニン提督
高田屋嘉兵衛商店模型と高田屋嘉兵衛像 
 
北前船について

江戸時代に瀬戸内海を中心に発達した船で、とがった船首に幅広い胴を持つ。17世紀末からは櫓を必要とせず、帆だけで走るため、少数の乗組員で運航できる経済的な船でした。そのため荷船として全国に広まった。また、多くの荷が積める千石船(千石=積載量150トンの大型船)とも呼ばれ、和船の代表的な船型である。北前船もこの船を用いた。


北前船の航路について

1672年(寛文12年)江戸の商人河村瑞賢は幕府の命令で、奥州(陸奥)の米を大坂に運ぶために、日本海沿岸を通り、下関から瀬戸内海を経由して大坂に至る「西廻り航路」を確立させました。
北国廻船は上方・瀬戸内海では「北前船」とも呼ばれ、江戸時代から明治初期にかけて西廻り航路により北国・東北地方と上方を往来した廻船のことで、他の廻船のように運賃積みではなく、各地で産物を買い入れて、これを自ら売るという買積制度を取っていました。
北国・東北からは米穀をはじめ各種の魚類、昆布、魚肥などを上方に運んで下関、尾道、兵庫、大坂などで売り、また各港では塩、砂糖、酒、織物、畳表などを仕入れて北国・東北地方に輸送しました。
 
   
旧都志(つし)港築提石


この石(花崗岩)は、高田屋嘉兵衛が

1825年に修築したといわれる旧都志港

の築提石の一部です。

前面の小石は、国立公園五色浜の原石です。
   
 司馬遼太郎作「菜の花の沖」に因んだ記念碑 三笠宮崇仁親王殿下お手植えの五葉松 




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