日光・草津温泉等探訪


日光・草津温泉方面の旅行企画に令和2年(2020年)11月26日(木)~11月28日(土)に参加しました。11月26日の夕方中禅寺湖から「華厳の滝」を見学後、いろは坂を通って、鬼怒川温泉で宿泊。
11月27日は輪王寺を見学後、日光東照宮を見学。その後、草津温泉に行き、「湯畑」を見学、光泉寺を見学後、草津温泉リゾートに宿泊しました。11月28日は京都まで、帰宅旅行になりました。


華厳の滝

栃木県日光市にある滝。発見者は勝道上人と伝えられ、仏教経典の一つである華厳経から名付けられたといわれる。男体山の噴火によって堰き止められた中禅寺湖からの地表流れる、唯一の流出口大谷川に存在する。落差97mの滝を一気に流れ落ちる様子は、日本三名瀑の一つに数えられている。
「華厳の滝」を観覧台から鑑賞
男体山

栃木県日光市にある標高2,486mの火山。山体は日光国立公園に属す。日本百名山の一つ。
古くから山岳信仰の対象として知られる。日光二荒神社の境内地で冬期入山禁止。
「男体山」をバスの車内から写す。
鬼怒川温泉

鬼怒川温泉は、古くは江戸時代より「滝温泉」の名称で呼ばれ、1752年当時は日光の寺社領であったことから日光詣で帰りの諸大名や僧侶達のみが利用可能な温泉でありました。
明治時代になり、「滝温泉」が一般に開放され、やけど・キズの名湯としてこの山奥まで訪ねる人が絶えず、その後鬼怒川を間にして、西岸と東岸に温泉を分かち、西を滝温泉、東を藤原温泉と呼び、会津街道を行きかう人の旅人宿として、また、里から山村に出入りする商人の宿としてますますその需要を深め、昭和2年頃より「鬼怒川温泉」と名称を改めました。
鬼怒川の景観(ホテルの窓から)
日光山輪王寺

栃木県日光市にある寺。日光山は天平神護2年(766年)に勝道上人により開山されました。以来、平安時代に空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられ、鎌倉時代には源頼朝公の寄進などが行われ、関東の一大霊場として栄えた。
江戸時代になると家康公の東照宮や三代将軍家光公の大猷院廟が建立され、日光山の大本堂と共にその威容を今に伝えています。

輪王寺の境内には、次のような主たる建物がある。
本堂(三仏堂)、大猷院、常行堂、大護摩堂、宝物殿、逍遥園、紫雲閣、中禅寺(立木観音)、温泉寺
三仏堂(重要文化財、世界遺産)

輪王寺の本堂は日光山随一、東日本では最も大きな木造の建物で、平安時代に創建された全国でも数少ない天台密教形式のお堂です。現在の建物は、正保2年(1645年)徳川三代将軍家光公によって建て替えられたました。 三仏堂の前には、推定樹齢500年という、天然記念物に指定されている「金剛桜」が植えられています。三仏堂の内陣には、日光三所権現本地仏(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)という三体の大仏様(高さ7.5m)と、東照三所権現本地仏(薬師如来、阿弥陀如来、釈迦如来)という掛仏の、2組の三尊仏が御本尊さまとしてお祀りされています。
輪王寺入口門 三仏堂側面と金剛桜(天然記念物)

明治天皇日光行在所

行在所の庭園は「逍遥園」の名で名園として知られている。
日光の紅葉の名所として有名なこの「逍遥園」は、
1250年の歴史を持つ輪王寺門跡の庭園として江戸時代初期に、小堀遠州によって作庭されたと言われています。江戸時代全般にわたる変化が見られる興味深い名園です。江戸時代初期、大名であり、茶人、建築家、作庭家、書家でもあった小堀遠州の作庭といわれる日本庭園です。
日光山の山主として「輪王寺宮法親王」という皇族出身の僧侶を迎える際に造営されたと伝えられています。
大護摩堂

大護摩堂の内陣には、御本尊「五十明王」(平安時代中期作)を中心に「七福神」や「十二支」など30身体の仏様や祖師像がお祀りされています。
天井には、故「吉原北宰」氏(国指定彩色保存選定技術保持者)が、2年半の歳月を費やして完成させた「大昇竜」が描かれています。
大護摩堂 護摩天堂

相輪橖(重要文化財)


慈眼大師(天海大僧正)が寛永20年に家光公の

発願によって、比叡山の宝塔に擬して構築した高さ

15mの青銅の供養塔であり、塔内に千部の経典を

収蔵し、天下泰平国土安穏を祈願せるものなり。
鐘 楼

宝物殿


「輪王寺宝物殿」は、1250年を越える日光山の歴史を物語る歴史的・美術的価値の高い資料を保存・研究しています。

昭和57年落成、昭和58年(1983年)に開館した鉄筋コンクリート2階建ての施設です。
収蔵庫には、国宝1件・59点、重要文化財51件・1618点、重要美術品4件・7点を含め、約3万点の資料(什宝)を収蔵しています。


紫雲閣


紫雲閣は、約1250年の歴史を有する輪王寺の布教活動・仏教文化向上を目的として明治時代に創建されたものです。
現在の建物は、その100年後の昭和61年に新築され、近代的設備を伴って一新されたものです。
1階のホールは、講演・会議・展覧会・休憩所などとして、また2階の仏間は、法話・写経・茶会など多目的に利用できます。
光明院稲荷社


鎌倉時代中期(仁治元年・1240年)、日光山第24世弁覚僧正が日光山の総本坊として「光明院」を創建し、その鎮守として建立されたのがこの稲荷社で、古くから日光山の五大稲荷の一つとして、学業成就・家業繁栄の守護神として信仰されています。光明院は、戦国時代に一時衰退するも、江戸時代に入り日光山中興「天海大僧正(1536年~1643年)」によって再興されますが、明治の神仏分離の混乱の際に焼失してしまいました。この稲荷社は、そうした日光山の歴史を伝える貴重な文化財です。
日光東照宮

日光東照宮は栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現を主祭神として祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。また、久能山東照宮・上野東照宮と共に三大東照宮の一つに数えられることが多い。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、東照宮の公式サイトがホームページに「日光東照宮」と呼ばれることが比較的多い。
現在の社殿群は、そのほとんどがご鎮座から20年後の寛永13年(1636年)に建てられたものです。陽明門(国宝)など55棟、その費用は、金56万8千両、銀百貫匁、米千石(『日光山東照大権現様御造営御目録』より)を要し、御造営の総責任者には秋元但馬守泰朝、工事や大工の総責任者には大棟梁甲良豊後宗弘があたり、わずか1年5ヶ月の工期で完成しました。

境内の特徴は、自然の地形を生かした参道や階段を用い、バランス良く配置された社殿群が荘厳な宗教的空間をつくりだしていることにあります。さらに建物には、漆や極彩色が施され、柱などには数多くの彫刻が飾られていますが、これらは単なるデザインではなく、信仰形態や学問・思想があらわれています。
また、これらの社殿群は平成11年12月「世界文化遺産」に登録されました。
参道(ここは標高634m、東京スカイツリーと同じ高さ。) 石鳥居(重文、1618年九州筑前藩主黒田長政公の奉納

五重塔(重文)


慶安3年(1650年)若狭の国(福井県)小浜藩主酒井忠勝公によって奉納されました。
文化12年火災に遭いましたが、その後文政元年(1818年)に同藩主酒井忠進公によって再建されました。

高さ35m。心柱は4層から鎖で吊り下げられ下端は礎石から浮いている。
木造建築の宿命である収縮により心柱が屋根を突き破ることを防ぐために江戸時代後期に発明された工法であり、他に地震や風による高層建築の振動を調整する機能を有する。
表門(重文、左右に仁王像が安置されており仁王門とも呼ばれている。) 三神庫(重文)内の下神庫
三神庫(重文)

上神庫・中神庫・下神庫を総称して三神庫と言い、この中には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収められている。
また、上神庫の屋根下には「想像の象」(狩野探幽下絵)の大きな彫刻が施されています。
中神庫(重文) 上神庫(重文)
神厩舎・三猿(重文)

神厩舎(しんきゅうしゃ)は、御神馬を繋ぐ厩です。昔から猿が馬を守るとされていることから、長押上には猿の彫刻が8面あり、人間の一生が風刺されています。
中でも「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿の彫刻が有名です。
神厩舎全景 三猿を含む側面
三猿「見ざる・言わざる・聞かざる」 「人間の一生」の猿の彫刻

御水舎(重文)


神様にお参りする前に、手を洗い、口をすすぎ、心身を清める為の建物です。

水盤は元和4年(1618年)九州佐賀藩
鍋島勝茂公によって奉納されました。
 

経蔵(重文)


天海大僧正の天海版の一切経を収めた建物で

経蔵という。

内部には輪蔵と言われる

八角形の回転式大書架がある。
鼓 楼(重文) 鐘 楼(重文)

附・鉄燈籠(南蛮鉄燈籠、重文)


仙台藩主伊達政宗侯(62万石)よりの奉納。

ポルトガルから鉄材を運んで鋳造した。

燈籠の竿の部分に「藤原朝臣政宗」の銘がある。

境内には、石造燈籠は約101基ある。

附・銅燈籠(重要文化財)

附・銅燈籠(釣燈籠・蓮燈籠・回転燈籠)


いずれもオランダ国からの奉納。

釣燈籠には寛永13年(1636年)4月17日奉納と寛永御造営完成の日の銘がある。
蓮燈籠は廻廊の胴羽目下の燭台と共に寛永17年(1640年)に奉納された。
回転燈籠の奉納は寛永20年(1643年)。
上部の葵紋が全て逆さになっていることから
逆紋の廻り燈籠とも呼ばれる。
廻廊(国宝)

陽明門の左右に延びる建物で、外壁には我国最大級の花鳥の彫刻が飾られている。
いずれも一枚板の透かし彫りには、極彩色が施されています。
廻廊(左は陽明門に向かって右廻廊、右は左廻廊)
陽明門(国宝)

日本を代表する最も美しい門で、宮中正門の名をいただいたと伝えられています。何時まで見ていても見飽きないところから「日暮の門」とも呼ばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など508体の彫刻が施されています。高さ11m、間口7m、奥行き4.4mの楼門。屋根の上には鬼瓦。軒下には後水尾天皇の御宸筆を象った御神号の扁額が掲げられ、その両脇に麒麟が配される。その下に龍と鬼が二列に並び、さらに下には龍の全身像と龍馬。二階の廻縁の高欄に「千人唐子の智恵遊び」、その下に唐獅子、次に中国の君子の姿。通路両側の脇の間には随身が控える。
陽明門に見られる多くの人物像は、泰平の世をもたらした徳川家康の功績を讃えた理想的な政治の在り方を示すものと考えられる。
背面にある地紋が逆さになっている「魔除けの逆さ柱」は、物事が完璧であるとかえって魔が差すとの考えから、故意に形を崩したものである。
陽明門表の上部 陽明門裏面
唐門(国宝)

全体が胡紛で白く塗られ、「許由と巣父(きょゆとそうほ)」や「舜帝朝見の儀」など細かい彫刻が施されています。
江戸時代の参拝基準となった門で、ここより昇殿できる者は、御目見得(おやみえ、将軍に拝謁できる身分)以上の幕臣や大名に限られていた。小規模だが、構造手法は極めて斬新卓越で、屋根は四方唐破風、門全体は胡粉摺りで白く塗られ、柱や扉は東南アジアから輸入した紫檀、黒檀、鉄刀木などの寄木細工。周囲の台輪の上には古代中国の聖賢の故事を題材にした彫刻が飾られており、いずれも一本の木のくり彫り。柱には唐木の寄木細工で昇龍・降龍の彫刻があり、屋根には名工椎名兵庫作である鯱切れの龍と唐獅子(夜の守り)が飾られている。

御本社(国宝)

本殿・石の間・拝殿からなり、東照宮の最も重要なところです。例祭をはじめ年中の祭典が斎行されます。
また、拝殿左右には、「将軍着座の間」・「法親王着座の間」があります。
 唐門と御本社  唐 門
神楽殿(重文)

神様に神楽を奉納する際に舞台となる社殿。春秋大祭では八乙女がここで神楽を舞う。
舞台は御本社側に向いており、その両側は観客が見やすいように上に開く蔀戸(しとみど)になっている。
外腰板の花籠のレリーフは当宮の彫刻の中でも見所の一つ。
神興舎(重文)(三基の神輿が収められています。) 祈祷殿(重文)(結婚式や初宮などの祈祷)
眠り猫(国宝)

名工左甚五郎の作と伝わる。江戸時代には正式には将軍社参の時しか開かれなかった坂下門の前に位置し、家康公の御墓所に続く奥社参道の入口を護る。
裏側に2羽の雀の彫刻があるが、牡丹の花咲く下に日の光を浴びて子猫が安眠し、雀が戯れる様子から強いものが弱いものをさまたげることのない、共存共栄の平和な世の中を表現していると考えられる。

附・銅燈籠(重文)


東福門院(徳川和子・2代将軍徳川秀忠公の娘で後水尾天皇の中宮)より奉納。

この燈籠は御皇室からの奉納品であることから
特別に御本社近くに置かれた。
   
本地堂(重文、鳴龍) 
草津温泉

群馬県吾妻郡草津町に存在する温泉。草津の白根山に降り注いだ雪や雨は地中深くに染み込み、その間に地下のマグマの熱の影響を受けじっくり温められ、色々な成分を取り込みながらゆっくり標高の低い場所に移動します。その時間は30年以上といわれ、長い年月がかかる分、湧出量の変動が少なく安定した温泉を草津温泉街に恵として与えることになります。草津には、主に6つの源泉がある。中でも有名なのが温泉街の中央にある源泉「湯畑」。現在、草津一の湯量を誇る源泉は、温泉街からちょっと離れた高台にある源泉「万代の湯」。「万代の湯」は、「西の河原大露天風呂」をはじめ、多くの旅館の内湯に引かれている。
 
(草津の名前の由来)
・大般若経に「南方有名是草津湯」という一条から出たとする説。
・草津の湯から発する硫化水素の匂いから「くさうづ」と呼ばれ、年々移り変わって「くさつ」となった説。


(草津の気候・地勢)
草津は海抜1,200mの高原の町で、1年間の平均気温が7℃で、7~8月の一番暑い時期でも平均気温17.5℃となっており、25℃以上になることはめったにありません。夏でも涼しく暑さ知らずで、まさしく日本のチロル地方と呼ばれるのもうなずけます。
名勝「湯畑」 

草津温泉のシンボル「湯畑」は、石柵内の広さ1,112㎡、52℃の温泉が毎分4,040リットル湧出している草津を代表する源泉地の一つです。
中央にある7本の湯樋は全長40mあり、ここに温泉を流すことで高温の温泉を冷まし、宿泊施設や共同浴場等へ給湯しています。また、土産物の「湯の花」は、この湯樋から採取されています。
「湯畑」という呼び名は、明治20年(1887年)に湯樋が初めて設置され、湯の花を採るための畑ということから定着してきました。江戸時代には「大池」、「湯の花の池」などとよばれていました。享保11年(1726年)と寛保3年(1743年)、江戸幕府の八代将軍徳川吉宗がここから温泉を汲み上げ、江戸城まで運ばせ入浴したと伝わっており、将軍御汲み上げの湯」とも言われました。
「湯畑」のような大源泉が町の中心にある例は全国的にもまれで、草津の町はここが発展していきました。昭和50年(1975年)には、岡本太郎が代表を務める現代芸術研究所によって湯畑を囲む石柵が設計され現在に至っています。源泉から湯樋等を通って、岩盤を流れ落ちる湯滝の様子は独特の風情があり、草津固有の温泉文化を象徴する風致景観が認められ、平成29年(2017年)文部科学大臣から国の文化財である「名勝」に指定されました。
 「湯畑」の全景。次に「湯畑」を一周し、各所で写した場景を次に示す。
   
   
   
   
   
 浜乃湯 白旗源泉(その昔、源頼朝が発見入浴。明治時代「御座の湯」を改め、源氏の白旗に因んで「白旗の湯」と命名。) 
   
 西の河原通り  熱乃湯(湯もみ会場)
草津山 光泉寺(真言宗・豊山派)

光泉寺は「湯畑」の丘の上にある。光泉寺は、白根明神の別当寺として正治2年(1200年)に草津領主湯本氏が再建したと伝えられている。光泉寺僧職は鎌倉幕府から地頭職を賜い、寺領として白根庄の領有を許されていた。真言密教の寺院である。鎌倉幕府滅亡後は、南朝に味方したが、後に北朝に仕えた。
文明13年、近衛道興の斡旋で「勅願寺」となって、後花園天皇の勅願等を賜っている。
また、宗祇、宗長、近衛龍山らの草津湯治の宿所であった。戦国時代、光泉寺僧職草津氏は猿ヶ京合戦に参戦、功労により上杉輝虎から感謝状を賜っている。御本尊は、薬師如来。
光泉寺の行基建立の薬師堂は古くから日本三大温泉薬師の一つとして著名であった。
東の草津、西の有馬は我が国の温泉の二大双璧で、これに山中の湯、城崎の湯、道後の湯のいずれかが加わって日本温泉三大薬師と呼ばれた。
 
   
 光泉寺参道石段 光泉寺本堂 
   
釈迦堂


元禄16年8月、江戸の医師外嶋玄賀宗静の発願によって建立されました。

施主は草津村湯本弥五右衛門。

この本尊「釈迦如来」は奈良東大寺公慶上人の作。
   
 鐘楼堂  湯泉観音
 
光泉寺から「湯畑」を望む 




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