沖縄・那覇市散策


沖縄県の「慶良間諸島9島めぐり」の企画に、令和2年(2020年)11月3日(火)~6日(金)の旅程で参加したが、台風20号の影響による強風でフェリー等が欠航となりました。この間那覇市内の繁華街である国際通り等を散策したのでその様子を紹介します。

那覇市について

那覇市は沖縄県の沖縄本島南部に位置する市。総人口約32万人(2020年10月末現在)。
県都・那覇市は、都会的な街並みの中に首里城跡などの文化遺産が数多く点在する観光都市です。
那覇市の魅力について、那覇市のホームページでは、次の3つをあげています。
〇歴史に触れる。 〇那覇を食す(那覇市第一牧志公設市場) 〇伝統の技と華(那覇市伝統工芸館)

歴史に触れる~・那覇市歴史博物館、・首里城公園、・識名園、・首里金城町石畳道、・玉陵、・壺屋焼物博物館等


那覇空港
沖縄都市モノレール

沖縄県那覇市の「那覇空港駅」と浦添市の「てだこ浦西駅」を結ぶモノレール路線で、開業は2003年8月10日。現在、19駅で路線距離は17.0km。沖縄県内で現存している唯一の鉄道路線。
愛称は「ゆいレール」。
「那覇空港駅」の駅舎 「美栄橋駅」のモノレール
モノレールの運行の様子
泊港について

那覇市にある泊港は離島(渡嘉敷、栗国、渡名島、久米島、南北大東)を結ぶ船舶が発着する港。各航路の乗船券売場は勿論、お買物に便利なコンビニ、沖縄料理店やカフェ、レンタカー営業所、銀行ATM等がある。
泊港の様子(左:フェリー、右:高速船など)
乗船券売場 フェリー「渡嘉敷」
久米島から帰港したフェリー「くめしま」 「とまりん」(乗船券売場(1階)と「アーバンリゾート那覇ホテル」等のビル)
那覇市国際通り

那覇市のメインストリート。「国際通り」は沖縄県の県庁所在地であり、県・市などの行政機関、民間企業が立地する業務集積地に隣接。約600の店やデパート、レストラン、サービス、雑貨店などや、ホテル、お土産屋などの観光を対象としたたくさんの店で賑わっている。
「国際通り」の様子
「国際通り」から分岐した「市場本通り」の様子
国際通り「のれん街」のビル 「平和通り商店街」の様子

那覇市伝統工芸館

「国際通り」の中央に位置する「てんぶす那覇」2階にある。(1階には那覇市観光案内所)

多くが琉球王国時代に生まれ、今日まで脈々と受け継がれてきた伝統工芸文化。
壺屋焼、琉球びんがた、首里織、琉球漆器、琉球ガラス等を体験、購入できる施設です。

5つの体験工房がある。
(紅型染め、壺屋焼シーサー作り、琉球漆器の絵皿塗り、琉球ガラスでガラス作りなど)
希望ヶ丘公園

希望ヶ丘公園は、「国際通り」中央部にある「てんぶす那覇」に隣接してある。ここには、沖縄最大の伝統行事「那覇大綱挽」の展示や沖縄の特徴的な樹木などがある。
ガジュマル(右側) デイゴ

リュウキュウチシャノキ
(琉球苣の木)


現在日本に100本程度しか残っていない。

貴重な樹木(絶滅危惧種)。

沖縄県指定天然記念物に指定されている。
那覇大綱挽の由来と魅力

那覇大綱挽の発祥は、古く古琉球の時代に遡りますが、那覇が琉球王国の国際交易都市として繁栄するに従い、農村的行事から次第に町方の催事に発展し、那覇四町綱として、国王襲位の国家的慶祝行事として挽かれるなど、村々のシンボルである勇壮・華麗な旗頭と一体となり、琉球王国の独特の大綱挽に成長し、1935年(昭和10年)まで慶賀綱として挽かれてきました。那覇大綱挽行事は沖縄戦で中断していましたが、戦後、市町村合併を経て一段と発展した那覇市は、1971年(昭和46年)那覇市制施行50周年記念に、沖縄戦からの復興を祝い、平和都市・那覇のシンボルとして、古式ゆかしく那覇大綱挽を復活しました。
以来、那覇大綱挽は市民の努力により年々大きく成長し、1995年(平成7年)には、ギネス認定の世界一の大綱に初認定され、世界に誇る沖縄最大の伝統行事として成長を続けています。
大綱挽の様子 希望ヶ丘公園に展示されている大綱
沖縄県庁
那覇市役所(県庁に隣接、緑を豊富に取り入れるため柱の多い建物にした。)
那覇市歴史博物館

沖縄の王朝文化と都市の歴史に関し展示、紹介している。
沖縄県は、かって琉球王国という、国王を頂点とする独自の国家を形成していました。1187年に、舜天王統が始まり、以後、英祖王統、察度王統と続きます。察度王は、中国からの招きに対し、1372年に泰期を中国へ遣わし進貢と、中国皇帝が周辺国の君主を承認する「冊封」による冊封体制が始まります。当時の琉球は、北山・中山・南山に分かれ争っていましたが、第一尚氏王統の尚巴志王がこれを討ち、三山統一を成し遂げました。その後、1470年には伊是名島出身の金丸が王位に就き尚円王と称し、第二尚氏王統が始まります。
14世紀から16世紀にかけて、琉球は中国・日本・朝鮮・東南アジア各国と中継貿易を行い、大いに栄えました。後に「大交易時代」と呼ばれたこの時代の繁栄の様子は、「万国津粱の鐘」の銘文として刻まれています。
しかし、1609年、薩摩藩が兵3,000をもって琉球を侵攻します。以後、琉球は日本の幕藩制支配下に組み込まれますが、中国との関係も続け、日中両国の外交的関係の下、王国体制を維持していきました。 1872年、明治政府より一方的に琉球藩が設置され、1879年には陸軍と警察を派遣し、沖縄県が設置されました。(琉球処分)
このとき、県庁が那覇に置かれたことで、那覇が政治・経済の中心地となります。さらに、1921年5月20日、当時の首里区・那覇区に市制が施行され、沖縄県において初めて「市」が誕生しました。
戦後の沖縄は米軍の統治下に置かれたが、1972年5月15日、沖縄の施政権が日本に返還され、新沖縄県が誕生しました。
玉冠(付簪)

玉冠(ぎょくかん)は皮弁冠(むべんかん)や玉御冠(タマンチャーブイ)とも呼ばれ、冊封や正月儀式など国の重要な儀式の際に、唐衣裳とともに国王の正装として用いられた。
表面には黒縮緬が貼られ、その上に金糸の帯が
12筋縫われ、各金筋には24個ずつ金や銀、珊瑚、水晶など7種類の玉が合計288個、鋲でとめられている。
金簪には龍の文様が表されている。
(製作:18-19世紀、高さ18.4㎝、長径21.8㎝、短径14.6㎝、重量605g)
王家の祭祀道具

ヌーメーウスリー(美御前御揃)は、琉球国王の居城でもある首里城の中の、国王のプライベートな生活の場にあたる御内原(ウーチバラ)で祭祀儀礼の際に用いられた御道具類です。
ヌーメーウスリーについて「沖縄文化の遺宝」(鎌倉芳太郎・著)では、中央に金・銀器を飾り、その右側に御籠飯(ウクファン)を、左に御玉貫を対にして配し、いずれも高い足付盆に据えられていたと記されています。足付盆は、トーマルブンとも称しました。
御道具類に付された左巴紋は「ヒジャイグムン」と称される尚王家の家紋です。
〇朱漆巴紋牡丹七宝繋沈金足付盆(国宝)

朱漆に沈金で、尚家の家紋である左三ッ巴紋や牡丹、宝繋文様が施されている。足付盆は儀式の際に、道具を載せるものとして使用された。


〇朱漆巴紋牡丹七宝繋沈金御籠飯(国宝)

儀式用の三御飾(美御前御揃)の一つ。御籠飯と呼ばれる米を盛る容器で、王城内での儀式や祝宴の際に用いられた。二段重ねの食籠で、蓋甲が一段高く蓋鬘や各段に玉縁を廻らす。朱漆に深い彫りの沈金で家紋である左三ッ巴紋や牡丹七宝繋文様が施されている。
〇銀脚杯(国宝)、〇托付銀鋺(国宝)、〇銀杯洗(国宝)、〇金杯(国宝)

いずれも城内での祝宴に用いられた。
〇托付銀鋺:全体に細かく牡丹唐草紋が線刻され、縁には雷文がめぐらされている。
〇銀脚杯:口辺部が八角形に形作られ、胴には菊と牡丹文様が線刻されている。三種類の大きさの脚付の銀杯である。
〇銀杯洗:蓋には牡丹を中心に4羽の鳳凰、胴には牡丹と菊の文様が刻まれている。
〇金杯:胴には双鳳瑞雲文様を、高台際には蓮弁を精密に打ち出し、内底と高台裏にはそれぞれ牡丹文が線刻されている。国王専用の金杯である。

御玉貫(ウタマヌチ、国宝)


本体は錫製で、蓋や本体は、尚家の家紋である左三ッ巴紋や幾何学文様が編み出されたガラス玉で覆われている。

国王からの褒美の品として使用されたほか、食籠や金銀器と組み合わせることで、儀式用の三御飾(美御前御揃え)として用いられた。

色絵紅葉文風炉(国宝)


筒型にろくろ成形し、肩に透かし彫りをした壺屋焼の風炉。
風炉は香をたいたり、茶道などで用いる。
化粧土を必要としない良質の白色陶土を用い、上絵具で樹木などを鮮やかに描く。
上焼の中でも数例しか確認されていない最上級の色絵作品の一つである。
(製作:19世紀、高さ:16.5㎝、口径:11.2㎝、
底径:15.6㎝)
衣 裳

尚家伝来の衣裳は、紅型41領、織物15領、刺繍1領である。
紅型は古くはカタチキー(形付)とよばれ、王族など一部の階層で着装されていた。紅型には、絹・苧麻・木綿などが用いられており
中国渡来の絹布もある。文様は、龍や鳳凰、蝙蝠など中国のめでたい文様や、日本の花や鳥などが描かれている。光学調査で、紅型は、石黄や朱、生臙脂など中国から輸入した色材で染めていることが判った。
織物は、苧麻や芭蕉、絹などの繊維で、ウドゥンガラ(御殿柄)と呼ばれる色鮮やかな大柄の絣や、花織など高度な技法で織られている。
これらの衣裳は、ゆったりとした身幅と、広幅、広襟の仕立てで、琉装の衣裳構成の特長を備えている。
尚王家の歴史

琉球王国の王家である尚家は、15世紀初頭に三つの勢力が覇を競っていた三山(中山・南山・北山)時代の沖縄島を統一した稀代の英雄尚巴志の打ち立てた第一尚氏(1406~1469年)とその後成立した尚円の王朝第二尚氏がある。
尚巴志の政権は7代60年余で滅んだが、尚円の第二尚氏は19代400年余りに及んだ長期政権で、1879年の明治政府による琉球処分=沖縄県設置まで存続した。
古琉球期(三山時代から1609年の島津侵略以前の時代)の第一、第二尚氏は日本、中国や東南アジアの各国と交易を展開し、琉球王国は東アジアの一大交易拠点となっていた。歴代の王は、中国明朝(後には清朝)皇帝の冊封を受け、琉球国中山王と称していた。
この間、第二尚氏第3代の王尚真(1477~1526年)は、50年の治世中、宮古、八重山を服属させるなど奄美諸島から八重山までの王国の版図を確定し、行政組織や聞得大君を頂点とした神女組織を整備するなど古琉球王国体制を確立した。
第7代の尚寧の時代、1609年に島津氏の侵略により、その支配の下に置かれ、徳川幕府の幕藩体制に組み込まれたが、明朝との冊封・進貢関係など特別な関係を重視した幕府、薩摩の思惑もあって、王国も王家も残置された。
17世期後半から18世紀前半には、第11代の尚貞や第13代の尚敬の下、摂政羽地朝秀や三司官
蔡温らが行政の改革や諸産業の振興に尽力し、近世の王国体制を確立した。
19世紀に入ると、農村疲弊が深刻化するとともに、異国船の来航が相次ぐなど王国の内憂外患が一気に高まった。そんな中、1868年に成立した明治維新政府は、琉球の日清両属体制を清算すべく、
1879年に琉球処分を断行し、沖縄県を設置した。
王国は崩壊し、藩王とされていた第19代の尚泰も華族に列せられて東京居住が命じられ上京した。ここに尚王家400年余の歴史に終止符が打たれたのである。
琉球の美術工芸

琉球王国の美術工芸は、中国や日本さらに東南アジアとの深いかかわりの中で、絵画や彫刻、書道はじめ染織や漆器などに特色ある造形美を展開させた。
王城は中国で学んだ宮廷絵師の絵画で彩られ、国王ゆかりの寺院や陵墓は優美な彫刻に包まれていた。士族や君子の芸術とされる書道を楽しみ、琉球独特の美術や書道は王国の崩壊とともに、その後ろ盾を失い、さらに沖縄戦で、多くの王国の文化遺産が灰燼に帰した。
工芸品は、染織や漆器、陶器などのデザインや技術が高く評価され、王国の贈答品や交易品として国外へ渡った。
絣や花織などの織物は、琉球で植栽される繊維や染料を用いた。苧麻や糸芭蕉、木綿、絹などを、藍や紅花をはじめさまざまな樹木を染料にして染め上げた。また、主に士族で着装した紅型は、中国から輸入した朱や石黄などの顔料や臙脂やラックなどの高級染料を用いた華やかな染物である。
漆器は、南海のきらびやかな貝で飾った螺鈿、リズミカルな金筋が踊る沈金、そしてふっくらとした立体感がやさしい堆錦など、バリエーションに富んだ技法が発達した。
織物や漆器は、琉球王国の看板工芸として、中国皇帝や日本の将軍家への贈答品としてさらに王国の経済基盤を支える交易品としても、長い歴史を有する。
焼物は庶民の暮らしとともに育まれた工芸である。水や味噌や油を蓄える容器、さらに葬儀の骨壺など、人々の暮らしで欠かせない工芸として壺屋を中心に発達した。
琉球の優れた工芸は、今も確実に脈々と受け継がれている。
沖縄県営鉄道那覇駅跡出土の転車台遺構

沖縄県営鉄道那覇駅は、沖縄戦による破壊や戦後のバスターミナル建設等によって当時の施設は全て残っていないと思われていました。ところが、再開発工事中に、当時の駅構内にあった施設の遺構が発見されました。発掘調査の結果、遺構は沖縄では唯一那覇駅だけに設置されていたと言われる、機関車を方向転換させるための「転車台」と呼ばれる施設であることがわかりました。
「転車台」遺構はコンクリートの基礎とその上にレンガを積み上げたドーナツの形をした構造で、かなり破壊されていましたが、全体の形がほぼわかる状態で残っていました。大きさは直径約6.8m、高さは最も残りの良い部分で最大約1.1mあります。
基礎部分の地中には、直径約18㎝前後の木杭が多数埋め込まれていました。これは、那覇駅一帯が埋め立て地で地盤が軟弱なため、「転車台」全体の沈下を防ぐための工事であったと考えられます。
発見された「転車台」遺構は、近代沖縄の交通の歴史、建築・土木技術など、様々なことを知ることができる大変貴重な文化財です。
那覇駅跡

沖縄における軽便鉄道各路線の起点となった那覇駅跡。日本の鉄道は、近代化への象徴として、明治新政府により推進され、1872年に初めて新橋~横浜間が開通した。沖縄県でも、本土から来た寄留商人を中心に、鉄道事業の計画が何度かなされたが、資金調達等で目途が付かず、計画中止が相次いだ。通常の線路幅である1067mmに対し、それ未満の線路幅の鉄道設置を認め、建設費や維持費の抑制を図った「軽便鉄道法」(1910年)の成立を受け、沖縄県では、1913年(大正2年)に線路幅762mmの軽便鉄道の敷設を決定した。
1914年(大正3年)12月1日に、那覇と与那原を結ぶ与那原線(全長約9.8km)の操業が開始され、その後、1922年(大正11年)に那覇~嘉手納線(約23.6km)、1923年(大正12年)に那覇~糸満線(約18.3km)が開業した。那覇港への引き込み線(約0.7km)も敷かれ、貨物専用として使用された。沖縄の軽便鉄道は、「アギフィーグルマ」(陸火車:陸蒸気船)とも呼ばれたが、人々からは「ケービン」の愛称で親しまれた。
那覇駅は、与那原線開業時に整備され、路線増加とともに拡充された。赤瓦葺きの木造平屋建ての駅舎には売店もあり、隣接して鉄道管理所や交番が置かれた。構内には転車台・機関車・石炭置き場、北端には職員住宅もあった。
車両は、蒸気機関車12両、ガソリン動車6両、客車52両、貨車51両あったといい、1930年(昭和5年)に始めて導入されたガソリン動車では、快速運転も行われ、乗客から人気があったという。那覇からは、それぞれ30分(与那原)、60分(嘉手納)、50分(糸満)程で結ばれていました。



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