兼六園散策


名園である「兼六園」には何度か行っていますが、今回冬の兼六園の様子を取材したいと
令和2年(2020年)1月14日(火)に行きました。
しかし今回は雪が全くなく期待外れでしたが、雪吊りなど冬独特の様子も見られ、兼六園の庭園としての美しさは素晴らしかったです。その時の様子を紹介します。


兼六園

兼六園は、石川県金沢市にある日本庭園。国の特別名勝に指定されている。広さは約11.7ヘクタールである。17世紀中頃、加賀藩によって金沢城の外郭に造営された藩庭を起源とする江戸時代を代表する池泉回遊式庭園であり、岡山市の「後楽園」と水戸市の「偕楽園」と並んで日本三名園の一つに数えられる。園名は、12代藩主前田斉広の依頼を受けた白河藩主だった松平定信が「洛陽名園記」を引用し、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の6つの景観を兼ね備えていることから命名しました。
金沢市の中心部に位置し、周辺には成巽閣、石川県立美術館、金沢21世紀美術館など観光地があり、道路(百閒堀通り)を隔てて橋一本で金沢城公園とも繋がっている。
徽軫(ことじ)灯籠と霞ヶ池


兼六園桂坂口入口 雪吊松
霞ヶ池と内橋亭(奥の建物)
霞ヶ池:天保8年(1837年)に掘りひろげられた池で、広さは5800平方メートル。
徽軫(ことじ)灯籠と虹橋

この灯籠は琴の糸を支える琴柱(ことじ)の形をしていることから、徽軫灯籠と呼ばれている。手前の橋は虹橋。別名を琴橋ともいう。この巧みな意匠が「兼六園」を象徴している。

水道の遺構

園内を流れてきた「辰巳用水」がここから逆サイフォンの原理で金沢城二之丸へ導かれた水道の遺構である。


寛永9年(1632年)に作られた時は木管であったが天保15年(1844年)に石管に替えられた。

この取水口を土塀で囲み、三つの番所水御門を構えて厳重に管理していた。
霞ヶ池にある「蓬莱島」
(不老長寿をあらわしている。また、亀の甲の形をしているので別名、亀甲島ともいう)
唐崎松

兼六園の中で最も枝ぶりが見事な松である。13代藩主・斉泰(なりやす)が琵琶湖畔の唐崎(近江八景の一つである唐崎の松)から種子を取りよせて実生から育てたクロマツである。11月1日に雪吊作業を始める。北陸に冬の訪れを告げる風物詩となっている。

雁行橋

11枚の赤戸室石を使って雁が列をなして飛んでい

る姿につくられているので「雁行橋」と呼んでいる。


また、一枚一枚の石が亀甲の形をしているので別名

を亀甲橋ともいう。
七福神山

文政5年(1822年)に建てられた「竹沢御殿」からながめた築山である。
自然石を左から順に恵比寿、大黒天、寿老人、福禄寿、布袋、毘沙門、弁天財にみたてて配している。
別名を「福寿山」ともいう。
七福神山 
旭 桜 兼六園熊谷桜

根上松


13代藩主前田斉泰(1822年~1866年)が、

稚松を高い盛土にお手植えし

徐々に土を除いて

根をあらわしたものと伝えられる。

辰巳用水

寛永9年(1632年)金沢城の堀の水や

防火用水として、ここから約11km先の

犀川上流から引水。園内の水はこの

辰巳用水を利用している。

工事の設計施工は小松の町人、

板屋兵四郎である。
明治紀念之標

1880年(明治13年)に西南戦争で戦死した石川県戦士400人を慰霊するために建てられた。
中央に「日本武尊像(身長5.5m)」、左に石川県戦士忠碑があり、両脇には京都の東本願寺・西本願寺の門跡から移された手向松が植えられている。西南戦争での戦死者を、九州の熊襲を平定した「ヤマトタケル」になぞらえて建立された。
右下の台座石は、平成13年(1991年)に「標」を大修理したが、台座石はひび割れがひどく更新された。
 明治紀年之標  旧台座石
舟之御亭 梅 林
兼六園の梅園の景観
長谷池と時雨亭

延宝4年(1676年)加賀藩第5代藩主前田綱紀は、兼六園の前身である蓮池庭に取りかかった。その庭の中心的な建物として建てられた蓮池御亭は、その後第6代藩主前田吉徳によって建て替えられているが、藩政後期には、時雨亭とも呼ばれていた。明治のはじめに取り壊されるまでは、今の噴水の前にあったが、平成12年3月この地に再現された。
栄螺山

前田家第12代藩主前田斉広が建設した「竹沢御殿」は、同第13代藩主前田斉泰に取り壊され、竹沢庭の改修が行われた、1837年(天保8年)には、泉水の付け替え、堀り足しの工事が行われ、霞ヶ池を堀った排土を用いて、栄螺山が築かれた。登り路が螺旋に作ってあり、その形がさざえに似ているので
「栄螺山」と名付けられた。
1839年(天保10年)には、山頂に三重の石塔が建てられた。この石塔は、真龍院と栄操院が、斉広の供養のために建立したもので、戸室山から切り出した石で造られている。
 栄螺山  避雨亭
三重塔(斉広の供養塔) 栄螺山からの霞ヶ池
栄螺山からの「霞ヶ池」の景観
瓢 池 瓢池と翠滝
海石塔 海石塔と翠滝
夕顔亭

園内に現存する最も古い建物で、1774年(安永3年)に建てられた茶室である。茶席の次の間の袖壁に夕顔(瓢箪)の透かしがあるので「夕顔亭」という亭名がつけられている。
本席は三畳台目で相伴畳を構えた大名茶室である。藩政時代は「滝見の御亭」とも呼ばれていた。

伯牙断琴の手水鉢

夕顔亭の前にある手水鉢の表面には中国の琴の名手「伯牙(はくが)」が友人の死を悲しんで、琴の弦を断ったという故事が浮き彫りにされている。
夕顔亭 夕顔亭の前にある「伯牙断琴の手水鉢」

噴水

12代藩主前田斉泰が金沢城二之丸に噴水を上げるために試作したとされ、日本に現存する最も古い噴水であるといわれる。
噴水のある場所より高い位置にある園内の水源・霞ヶ池から石管で水を引き、水位の高低差だけを利用して、水を吹き上げさせている。
そのため、水が吹き上げる最高点は約3.5mと霞ヶ池の水面の高さに相当する。

ポンプなどの動力は一切用いておらず、位置エネルギーのみを利用したものである。

ラジオ塔

日本放送協会(NHK)が、公共放送普及のため昭和8年(1933年)に設置したもので、名古屋局のラジオを受信して流していた。

昭和5年から全国に約460基が設置されが、その後のラジオ普及で役割を終えた。

木製の灯籠型が採用されたこの塔は、時の経過と共に「兼六園」の景観にとけこんでいる。
黄門橋 旧時雨亭跡
常盤ケ岡にある「虎石」と「獅子巌」
   
雪景色の兼六園(ウエブより) 
石川門

石川門は三十間長屋とともに旧金沢城の数少ない遺構の一つである。
建立されたのは1788年(天明8年)で、国の重要文化財に指定されている。
白く輝いている屋根は鉛瓦である。
石川橋と石川門
旧金沢城の石垣と金沢城公園
金沢神社

金沢神社は、兼六園に隣接してある。菅原道真を主祭神とする。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社の一つ。
寛政6年(1794年)、加賀藩11代藩主前田治脩が藩校明倫堂を建てた際、その鎮守社として、学問の神であり、前田家の祖先とされる菅原道真を奉斎する神社を創建したのに始まる。
兼六園を整備する際に明倫堂は別の地に移転したが、神社はそのまま残され、12代藩主前田斉広が建てた「竹沢御殿」の鎮守社とされて竹沢御殿御鎮守天満宮と称した。神社には、災難除けの神である白蛇竜神、交通安全の神である琴平大神、商売繁盛の神である白阿紫稲荷大明神も合わせて祀り、歴代の藩主が兼六園を散策する際に藩内の繁栄と平和を祈願した。
第一鳥居 石鳥居
神 門 本 殿
放生池(金沢神社参道脇にある) いぼとり石
成巽閣(せいそんかく)(重要文化財)

この建物は、文久3年(1863年)加賀藩主第13代前田斉泰公が母堂真龍院の隠居所として兼六園内の竹沢御殿跡の一隅に造営されたもので、金沢城から見て東南方即ち巽(辰巳)の方位に在るとして、当初は「巽新殿」と名付けられたが、明治7年(1874年)に兼六園が一般公開された時に、「成巽閣」と改称された。「成巽閣」は、2階建、寄棟造り、杮葺の建造物で、幕末武家造りの遺構として他に類例がないものと高く評価されている。階下は、謁見の間、御寝所の亀の間、蝶の間等整然とした武家書院造りとし、階上は群青の間を中心とした数寄屋風書院造りの7室からなり、天井および壁の意匠に趣向が凝らされている。
成巽閣裏門 成巽閣




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