熊野・白浜探訪


世界遺産に登録される前に、熊野地域や白浜地域には何度か行っていますが、暫くぶりに今回訪れることになりました。令和元年(2019年)12月24日(火)・25日(水)に旅行会社の企画に参加しました。
(旅程)
京都駅前⇒十津川村⇒瀞峡めぐりの里熊野川⇒熊野速玉大社⇒潮岬観光タワー⇒ホテル&リゾーツ和歌山・串本(宿泊)⇒大島にある樫野埼灯台⇒白浜・三段壁⇒とれとれ市場南紀白浜⇒紀州梅の里なかた⇒京都駅前


十津川郷伝習館(道の駅) 伝習館前の足湯
瀞峡船乗場付近の景観
熊野速玉大社

熊野速玉大社は、和歌山県新宮市新宮1にある神社。熊野三山(史跡)の一つ。熊野速玉大神と熊野夫須美大神を主祭神とする。創建年代は不詳である。
熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ、熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男とされる。また、この速玉之男神の名から神社名がつけられたといわれる。
熊野夫須美大神は伊邪那美神とされる。もともとは近隣の神倉山の磐座に祀られていた神で、何時頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。神倉山にあった元官に対しては現在の社殿を新宮とも呼ぶ。穂積忍麻呂が初めて禰宜に任じられてからは、熊野三党のひとつ・穂積氏(藤白鈴木氏)が代々神職を務めた。

熊野速玉大社大鳥居 佐藤春夫先生の句碑(地元出身)
八咫烏神社・手力男神社 熊野速玉大社参詣曼陀羅図
熊野神宝館 神宝館前の武蔵坊弁慶像(地元出身)
梛の大樹(御神木、国指定天然記念物)

境内にそびえる推定樹齢千年のナギの大樹は熊野権現の象徴として信奉篤く、古来から道中安全を祈り、この葉を懐中に納めてお参りすることが習わしとされています。熊野牛王とナギの葉をいただくことが、難行熊野詣を無事果たす大きな支えとなりました。高さ20m、幹周り6m(国内最大)。

「千早ふる熊野の宮のなぎの葉を変わらぬ千代のためしにぞ折る」:藤原定家
手水社 神 門

熊野詣「奉八度の記念碑」



当大社は、全国の数千社にのぼる熊野神社総本宮。日本第一大霊験所として、古来各地からの参詣が多い。

この碑は、表に「奉八度参詣、奥州南部八戸領八日町、吉田金右衛門」と刻んでいる。

奥州の熊野信仰を物語る貴重な石造遺物である。
   
 世界遺産記念碑 参集殿 
   
 授与所 大禮殿 
熊野速玉大社拝殿
拝殿の室内
熊野速玉大社本殿、右端は奥御前三神殿
奥の建物:左から上三殿、八社殿 奥の建物:右から上三殿、速玉宮(本殿)、結宮
左奥は拝殿
下四社(米持宮(面足命)、飛行宮(大斗之道命)、勧請宮(泥土煮命)、
十万宮(豊斟淳命)、一万宮(国狭槌命))
中四社(子守宮(鵜葺草葺不合命)、児宮(彦火火出見命)、聖宮(瓊瓊杵命)、禅児宮(天忍穂耳命)
上四社

第一殿結宮(熊野夫須美大神)、第二殿速玉宮(熊野速玉大神)、第三殿証誠殿(家津美御子大神、国常立命)、第四殿若宮(天照大神)・神倉宮(高倉下命)
上四社の第三殿証誠殿
上四社の第四殿若宮
上四社の第四殿神倉宮
  熊野御幸の石碑

中世、宇多上皇(第59代天皇)の延喜7年(907年)から玄輝門院の嘉元元年(1303年)までの396年間に、上皇、女院、親王を合わせて140回に及ぶ皇室の御参詣があり、これを熊野御幸と言って、熊野三山史上に不滅の光彩を放っている。
熊野御幸には、陰陽師に日時を占定させて、斉館で心身の御精進を数日間行われて後にご出発になる。白河天皇の天永元年9月の行幸には、総人数814人、一日の食糧16石二斗八升、傳馬185匹と「中右記」に記している。
熊野御幸によって、熊野信仰は公卿武士、庶民の間に流布し、熊野水軍をもつ熊野三山の忠誠心を助長し、京と熊野との文化交流など各方面に大きな影響を残している。
 
熊野恵比寿神社 新宮神社
熊野稲荷神社 後白河法皇御撰梁塵秘抄所載の記念碑
橋杭岩

橋杭岩は、和歌山県東牟婁郡串本町にある奇岩群。同町の大字鬮野川(くじのかわ)小字橋杭の海岸から紀伊大島方面へ大小約40の岩が南西一列におよそ850mもの長きにわたって連続してそそり立っている。直線上に岩が立ち並ぶ姿が橋の杭のように見えることから橋杭岩と呼ばれている。また、干潮時には岩の列中ほどに付属する弁天島の西側には朱色の鳥居があり、それをくぐると小道があって少し登ると岩壁を背にした祠があり、参拝することができる。吉野熊野国立公園に属しており、国の名勝や国の天然記念物の指定も受け観光名所となっている。また、橋杭岩を通して見る朝日はとても美しい評判で日本の朝日百選の認定も受けている。
橋杭岩は、1500万年前の火成活動により、泥岩層の間に流紋岩が貫入したものである。貫入後に差別侵食により、柔らかい泥岩部が速く侵食され、硬い石英斑岩が杭状に残されたものである。
潮岬灯台と潮岬観光タワー

潮岬灯台・潮岬観光タワーは、紀伊半島南端の和歌山県東牟婁郡串本町にある太平洋に突き出た潮岬に建つ白亜の灯台である。潮岬灯台は明治初期の江戸条約によって建設された8基の洋式灯台(条約灯台)の一つで、歴史的・文化的価値が高いAランクの保存灯台に指定されているほか、「日本の灯台
50選」にも選ばれている。周辺一帯は南紀の景勝地で、吉野熊野国立公園に指定されている。
潮岬灯台 潮岬観光タワー

本州最南端の碑

潮岬灯台・潮岬観光タワーは東経135度46分、北緯33度26分。
本州最南端として知られている。

潮岬観光タワーの展望台には記念碑があり、本州最南端訪問証明書ももらえる。

展望台からは太平洋の海原や大島などパノラマの景観を楽しむことが出来る。
潮岬観光タワー展望台からの景観(右下写真の奥は大島)
潮岬観光タワー1階に展示されている「エルトゥールル号」の模型。
東映映画「海難1890」の撮影で使用された。
上はホテル&リゾーツ串本、中央左は大島からの日の出、右は串本大橋(串本と大島を結ぶ橋)
下の左はホテルの敷地内にある「エルトゥールル号」の模型、右は橋杭岩
トルコ記念館


トルコ記念館は大島にある。
明治23年(1890年)9月16日、オスマントルコ最初の使節団を乗せた「エルトゥールル号」が、天皇への謁見を終え帰国する途中、当施設沖で岩礁により遭難。
島民の献身的な救助活動により、トルコと日本の友好の歴史が始まりました。
この施設には当時の「エルトゥールル号」の遺品や資料が展示してあります。
トルコ軍艦遭難慰霊碑

明治23年9月16日に「エルトゥールル号」が暴風雨のため岩礁に乗り上げ遭難。
島民は献身的な救助活動を繰り広げ69名を救助しましたが、580余名の乗組員の尊い命が奪われました。そして、引き揚げられた遺体をこの丘に埋葬しました。
翌、明治24年に和歌山県知事をはじめ、有志の義金により墓碑と慰霊碑が建立され、併せて追悼祭が行われました。この碑は昭和4年の昭和天皇の樫野崎行幸を聞いたトルコ共和国ムスタファ・ケマル・アタテュルク初代大統領が新たに慰霊碑を建立(昭和12年)完成したものです。

日本赤十字社
「平時国際活動発祥地の地」記念碑



この記念碑は、トルコ軍艦遭難時に救助看護
にあたった人々と赤十字の博愛精神
を思い起こし、平和を願う心
をデザインしたものです。
ムスタファ・ケマル・アタテュルク騎馬像 昭和天皇の樫野崎行幸記念碑
樫野崎灯台

この灯台は、慶応2年(1866年)江戸幕府とアメリカ等4ヵ国との間に結ばれた江戸条約で建設が決められた8灯台(潮岬灯台も該当)の内の一つです。
「日本の灯台の父」として知られるリチャード・ヘンリー・プラントン(英国人)が我国で初めて手掛けた石造りの洋式灯台で、明治2年(1869年)3月着工、翌明治3年(1870年)6月10日に点灯されました。地上から灯台頂部:約15m、水面から灯火部:約47m
樫野崎付近からの大島の海岸景観 大島と串本間の養殖生簀(丸型はマグロの養殖)
三段壁

三段壁は和歌山県西牟婁郡白浜町三段にある自然景勝地で、国の名勝に指定されている。
三段壁は、海面からの高さが50m~60mに及ぶ柱状節理の大岩壁で、断崖絶壁の名勝として知られる。断崖には展望台が設けられており、雄大な南紀の海景を見ることが出来る。また、平成28年8月に日本ジオパークからジオサイトに指定されている。
また、地下36mには海蝕洞窟が形成されており、断崖上から地中をエレベーターで降りると
洞窟内部を観覧できる。(三段壁洞窟)

三段壁洞窟由来

第50代桓武天皇の頃、熊野鬼ヶ城を本拠とした海賊多賀丸なる者がいた。三段壁もその頃は「みだん」と呼ばれて海上を運航する船の状況を偵察したり、魚群の様子などを岩頭に立ってみる壇から、「みだん」、「三段」になったと言われている。鬼ヶ城を本拠とする海賊(水軍)の隠し洞窟として使用されたと思われるのは沖を通る大船がある朝忽然と消えたり、燃えて海上から没してゆくのを見たと古い記録にある、魔の牟婁沖を船夫達に恐れられたのも事実である。源氏、平家が四国の屋島で対決し、那須与一が扇の的をを射た時点に於いては勝敗は何れのものともわからなかった。
当時、熊野の武力を一手に収めて支配していた、かの豪傑武蔵坊弁慶の父第21世熊野の別当湛増は陸兵の他、敏棲果敢な水軍を配下にもって源氏に決定的な勝利をもたらした。
三段壁洞窟正面玄関とエレベーター乗場
三段壁洞窟記念碑 洞窟内にある熊野水軍の模型
洞窟内にある牟婁大弁財天(パワースポット) 熊野水軍番所小屋
洞窟の海水入口付近(左の写真の奥は「十像岩」:岩肌に10の石像が見える珍しい天然の岩肌
潮吹き岩:洞窟の対岸にあり、打ち寄せる波の圧力で数メートルまで潮を吹き上げる岩盤
漣痕(れんこん、リップル):
約1600万年前に波や潮流によって海底の砂や泥が動かされ地層の表面に作られたものを漣痕という。その漣痕が次々と積み重なり地層の中に保存された天井岩盤が上の写真。波の模様が美しく現れている岩盤に自然の壮大さを感じる。
 
   
鉱穴(ここでは、以前鉛や亜鉛、銅等の鉱石が採掘されていた。) 
紀伊半島の由来

紀伊半島は、プレートの運動によって、古第三紀の頃(数千万年前)、海溝に堆積した地層が陸側に付加して出来た岩盤と、新第三起中新世の初め頃(約1600~1800万年前)に前弧海盆と呼ばれるやや浅い海底に堆積した地層(田辺層群)から出来ています。
紀伊半島には、新第三紀中新世の中頃(約1400~1500万年前)に著しいマグマの活動がありました。その活動は湯崎半島にもおよび、熱水による鉱床(鉛山鉱山など)が形成されと共に、白浜に高温泉が湧き出るようになりました。
 
   
 とれとれ市場南紀白浜 紀州梅の里なかた 




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