太宰府天満宮と光明寺


太宰府天満宮と光明寺に、令和元年(2019年)11月25日(月)に訪れました。若い頃、太宰府天満宮には行ったことがありますが、その時の印象は薄れ、現在充実した太宰府天満宮を見ることが出来、印象深く参拝しました。元号が令和になり、さらに多くの方が参拝に来られているとのことです。
光明寺は、太宰府天満宮の隣で、「苔寺」として知られ、「仏光石庭」と「一滴海庭」の枯山水庭園が有名です。庭園の紅葉が素晴らしいことでも知られており、太宰府天満宮の結縁寺としても知られています。


太宰府天満宮

太宰府天満宮は、福岡県太宰府市宰府にある神社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は梅紋である。菅原道真(菅公
菅原道真公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮約12,000社の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。現在、「学問・至誠・厄除けの神様」として広く崇敬されている。
右大臣であった菅原道真は901年に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の太宰府に員外師として左遷され、翌々年の903年に同地で死去した。その死後、道真の遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなった。これは道真公の遺志によるものと考え、905年8月、同寺の境内に門弟の味酒安行(うまさけのやすゆき)が廟を建立。一方都では疾病や異常気象など不吉なことが続き、さらに6年後の909年には藤原時平が39歳で死去した。これらの出来事を「道真の祟り」と恐れて、その御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が太宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営した。これが安楽寺天満宮の創祀である。それでも「道真の祟り」は収まらず、わずか30年ほどの間に道真「謀反」にかかわったとされる天皇1人・皇太子2人・右大臣1名以下の高級貴族が殺害されたことになる。990年頃からは本来は天皇・皇族を祀る神社の社号である「天満宮」も併用されるに至った。986年に道真の曽孫菅原輔正によって「鬼すべ神事」が始められるようになった。
道真の御霊に対する恐れも少なくなってきた中世頃から、道真が生前優れた学者であったことにより「学問の神様」としても信仰されるようになった。
本殿への参拝
(天正19年(1591年)に竣工したのが現在の本殿。桃山時代の豪壮華麗な様式を伝えている。国の重要文化財に指定されている。)
太宰府駅(西鉄) 参道の商店街
太宰府天満宮の「一の鳥居」と右側の建物は案内所

菅原道真公の歌碑


「東風吹かばにほひおこせよ梅の花
あるじなしとて春は忘れそ」


昌秦4年(901年)に太宰権師を命じられた菅原道真公が京都を出発される際に紅梅殿の梅に惜別の想いを込めて詠じられたもので、公を慕って一夜のうちに京より太宰府まで飛来したといわれる
御神木「飛梅」(御本殿右側)の由来
として有名である。

石鳥居


この石鳥居は今からおよそ700年前、
南北朝時代に建立されたと推定され、
九州では最古と云われている。

筑後国有坂城主新田大炊介寄進
と記されている。

福岡県指定文化財。
太鼓橋(参道側から、過去・現在・未来を表す橋)
心字池(太鼓橋の所にある左右の池)
御神牛(県指定文化財)

菅原道真公は承知12年(845年)6月25日、乙丑(きのとうし)の年に御誕生になりました。
また、菅公は延喜3年(903年)2月25日にお亡くなりになりましたが、御遺言「遺骸を牛車にのせて人にひかせず、牛の赴くところにとどめよ」と仰せられ、その牛が動かなくなった所を御墓所と定めました。
それが御本殿の地です。
文化2年(1805年)乙丑の年に奉納されたこの神牛の臥牛像は、御自分の身体と同じ神牛の部分を祈念を込めてお互いに撫でさすれば身体健全はもとより病気全快するといわれ、また、神牛の頭部を同じように撫でさすれば智恵が付くという。
手 水 舎
楼門前鳥居 楼 門
(現在の門は大正3年(1914年)再建。御本殿側と太鼓橋側で形状が異なる珍しい楼門です。)
本殿と本殿の裏側
飛梅(本殿に向かって右側)
(御神木、極早の八重咲、梅の木は境内に約200品種、約6,000本が奉納されている。)
皇后の梅(本殿に向かって左側)
橘(本殿に向かって左側、皇后の梅の左側) 祈願受付・御朱印所
御守授与所 天開稲荷社授与所
社務所 誠心館(儀式殿)
菅公歴史館
(道真公の生涯を博多人形のジオラマで紹介している。)
宝物殿
絵馬殿 時打堂

末社 志賀社


御祭神は海神綿津見三柱神で、海上安全の守護神として奉祀される。社殿は長禄2年(1458年)再建で、屋根が入母屋造りで正面に千鳥破風を付け、和・禅宗・大仏の三様式をもって構成される。
当初は、黒漆と金製金具をふんだんに使っていたと云われている。
美術工芸品ともいえる精巧な建造物である。

国の重要文化財に指定されている。
末社 今王社 浮 殿
菓祖 末社 中島神社(御祭神:田道間守命(たじまもりのみこと))
摂社 野見宿禰社(菅家祖神) 摂社 靍寿尼社(菅公伯母君)
末社 金刀比羅社(御祭神:大物主神) 摂社 天穂日命社(菅家祖神)
末社 皇太神宮(御祭神:天照大神) 末社 七社

相輪橖

仏教の塔の新しい形式で伝教大師によって伝えられ、心柱が通り下から露盤、覆鉢、請花、九輪、水煙、竜舎、宝珠の各部から成る。

享和2年(1802年)に建立し弘化4年(1848年)再建、大祭記念として東神苑よりこの地に移転。

我が国に8基あり、九州にはこの一基が現存し、貴重な建造物である。

太宰府市指定文化財。
末社 尊意社(御祭神:法性坊尊意霊) 末社 人丸社(御祭神:柿本人麻呂命)

摂社 楓社

御祭神は菅公北の方宜来子命(のぶきこのみこと)

道真公の奥方で、詩作の師である島田忠臣の娘。

創建は不詳なるも、室町期の境内古図には、既に記されている。

古来より、夫婦円満、安産・子宝の守護神として
信仰されている。
摂社 福部社(菅公恩師:島田忠臣公を祀る。) 摂社 老松社(菅公父君・母君を祀る。)
(太宰府市指定文化財)

夫婦樟

樟は筑紫路を代表する樹木で、太古の昔より自生し、天神の森を形成している。

その中でも特に大樟といわれ、大正11月3日に他の1本と共に国指定天然記念物に定められたのが夫婦樟である。

夫婦が寄り添って立つ姿に見えるのでこの名がついた。
樹齢は1000年から1500年と推定されている。

厄晴れひょうたん


古来より不思議な霊力がこもるとされる

「ひょうたん」の中に「厄除」や「願い事」を

記入した用紙を入れ、

除災招福を祈念するものです。

摂社 御子社

向かって右から

〇御祭神:菅公男 淳茂命

〇御祭神:菅公男 兼茂命

〇御祭神:菅公男 景行命

〇御祭神:菅公嫡男 高祖命
保食社(食物の主宰神及び牛馬の霊を祀る。) 大樟(国の天然記念物)
梅 園
(太宰府天満宮の梅は「献梅」といって全国各地より天神様に献げられ、約200品種あり、極早咲ー早咲ー本咲ー尾咲ー極遅咲と揃い、1月~3月中旬まで梅の香を楽しめます。)
野見宿禰公碑(菅家祖神) 包丁塚
筆 塚 憩いの池
歌 碑 本殿裏の紅葉
延寿王院

安楽寺天満宮留守別当。大鳥居の宿坊で、宝暦4年(1754年)桃園天皇より院号を賜った。
慶応元年(1865年)から約3年間、朝廷を追われた三条実美ら尊皇攘夷派の5卿がこの延寿王院に滞在し、その間、西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬ら大勢の勤王の志士達が去来して明治維新の策源地となった。
山 門 延寿王院の全景
延寿王院の境内 太宰府顕彰会
浮堂付近の紅葉
光明寺

光明寺は、福岡県太宰府市にある臨済宗東福寺派に属する禅宗寺院。山号は神護山。本尊は薬師如来。光明禅寺の名で呼ばれることも多い。1273年(文永10年)鉄牛円心によって建立され開山となった。江戸時代には太宰府天満宮に仕える人々とその家族の菩提寺として、1616年(元和2年)に再興されて、1856年(安政3年)再営された天満宮の結縁寺である。
太宰府天満宮の参道の一の鳥居を右に曲がると突き当りに山門、鐘楼が見える。光明禅寺は別名「苔寺」とも呼ばれ、その名の通り庭園は碧く苔むし、前庭を七・五・三の十五石で光の字に配石された仏光石庭、裏庭は、青苔は大陸と島、白砂は水と大海を現し、長汀曲浦の見事な線で画出された枯山水の一滴海庭となっている。また、秋には紅葉が映え、一段と風情が楽しめます。
光明寺の鐘楼等 「仏光石庭」への山門
本坊山門 本坊玄関
「仏光石庭」の枯山水
「一滴海庭」の見事な紅葉




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