神在祭の出雲大社


出雲大社は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は「大国主大神」。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社。神社本庁の別表神社。宗教法人出雲大社教の宗祠。
二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。
古代より杵築大社と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。

出雲大社はいわゆる国譲りの事情のもとで創建された。創建にかかわる日本神話の主なもの。
『古事記』~大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。
『日本書紀』~高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命(大国主神)に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。

『大国主神』~日本神話に登場する神。国津神の代表的な神で、国津神の主宰神とされる。
古事記、日本書紀によると、須佐之男命の六世孫、七世孫、また「日本書紀」正伝によると、素戔嗚尊の息子。須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせりびめのみこと)との婚姻の後、少名彦那命と協力し天下を経営し、禁厭(まじない)、農業、医薬などの道を教え、国造りを完成させたと云われている。
「大国主神の別称」~大国主大神、大物主神、大己貴命、地津主大己貴命、大国魂神、杵築大神、
八千矛神、幽世大神、大黒様(神仏習合)等

神在祭について

毎年旧暦の10月に全国の八百万の神々が出雲大社に集う。古くから伝わるお祭りです。旧暦10月10日の夜、八百万の神々は出雲に御着きになり、それより1週間御滞在になられて会議を開かれます。そして、旧暦10月17日に出雲大社をお発ちになり、その8日間は「神在期間」として大変多くの方が参拝されます。出雲地方以外は、「神無月」としています。
令和元年は、11月8日~11月13日の8日間に神在祭が行われました。


本殿(国宝)、本殿境内の各神殿(重要文化財)
神楽殿
鳥居「勢溜」 下り参道
参道脇にある「浄の池」 参道脇にある「祓社」
祓 橋 「祓端」の鳥居と松の参道
松の参道(出雲市指定史跡)と樹齢のある松の木
斎 館 交通安全の御祓所
大国主大神の像 縁結びの碑
手水舎 皇后陛下の歌碑(平成15年、天皇・皇后陛下行啓)
ムスビの御神像(国譲りの御言葉の様子)
本 殿(国宝)

本殿は、玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されている。本殿内北西には御客座五神が祀られている。大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。これは本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているため、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるためと考えられる。天井には7つの雲の絵が描かれている。現在の本殿は1744年(延享元年)に建てられたもので、高さは8丈(約24m)と、神社としては破格の大きさである。(平安時代には48m、上古には96mあったと伝えられている。)

拝 殿

室町時代の1519年(永正16年)に造営されたが、1953年に鑚火殿から出火し拝殿も類焼。1959年(昭和34年)に完成した。
 
銅鳥居(重要文化財) 拝 殿
八足門(重要文化財) 観祭楼(重要文化財)
御守所(拝殿横) 御守所(本殿八足門横)
左前:御守所、左奥:瑞垣(重文)、右前:八足門(重文)、中央:楼門(重文)、奥:本殿(国宝)
西十九社(重要文化財、八百万を祀る。神在祭の際、神々の宿舎となる。普段は閉じているが、神在祭時開いている。
東十九社(重要文化財、八百万を祀る。神在祭の際、神々の宿舎となる。普段は閉じているが、神在祭時開いている。
本殿(左:東側から写す(本殿側面)、右:北側から写す(本殿の裏側))
御本殿の西向き御神座に向かって西側から祈る。 「築紫社」(手前:重文、奥:本殿))(西側から)
手前:天前社(重文)、中央:御向社(重文)、奥:本殿(東側から) 本殿境内にある「門神社」(重文)
氏社(重文、摂社、左:祭神は宮向宿禰命、右:祭神は天穂日命)(御神座方向を向いている。)
宝 庫(重要文化財) 彰古館(国の登録有形文化財)
素鵞社(重文、須佐之男命を祀る。) 釜社(重文、素戔嗚尊の子の宇迦之魂神を祀る。)

文 庫

寛文7年(1667年)の御遷宮に際して新造された図書館建物です。
寄棟造の屋根は栗板の栃葺き仕様、内部は中央が土蔵造で和漢書などの架蔵部屋、その左右が畳敷きの閲覧部屋となっています。
貞享2年(1685年)水戸徳川家二代藩主の徳川光圀(水戸黄門)は「大日本史」の編纂のため“助さん”こと佐々介三郎を出雲大社に調査派遣します。
光圀は、自ら考纂した「公卿補任補闕」を文庫に奉納しました。

会 所(重要文化財

寛文7年(1667年)の御造営遷宮に際して造替。
荒垣内の宝物殿付近に建造だったが、昭和18年(1943年)に現在地に移築された。
江戸時代の会所は、祭事に際して神職のお籠り、潔斎、藩主など参拝の応接、月次連歌会など多目的機能の場として使用されていた。
内部は、上下段の間の床壁や、腰障子には狩野安成・西山久三郎による極彩色画、歌仙の間の長押には土佐光起画・飛鳥井雅章筆による三十六歌仙額がずらり。また、室内には華やかな四季農耕図、舞楽図の屏風も据えられている。
宝物殿(神祜殿)
おくにがえり会館(結婚式場) 祈祷・年貢受付所
野見宿禰神社(出雲大社摂社)

野見宿禰神社の御祭神は野見宿禰命。野見宿禰命は、出雲国造(出雲大社宮司)の祖先神天穂日命の13世の嫡孫で、第13代出雲国造襲髄命(かねすねのみこと)にあたります。
「日本書紀」垂仁天皇7年7月7日の条には、当時、天下一の力士と評判であった当麻蹴速(たいまのけはや)と御前相撲を取り、見事に打ち勝ったことが記され、以来、野見宿禰命は国技大相撲の元祖と称えられ、今日では相撲をはじめスポーツを志す人々に広く崇められています。
野見宿禰神社 相撲場

昭和天皇御製歌

昭和天皇が出雲大社に行啓された折、出雲大社境内の「あけぼのすぎ」(メタセコイヤ)を見られた時のことを、昭和62年の歌会始のお題「木」でお謡いになられました。

「わが国のたちなほり来し年々に

あけぼのすぎの木はのびにけり」
永職館

寛文5年(1665年)、江戸幕府は全国の神社統制のため「諸社禰宜神主法度」を公布しました。これは京都の吉田家を介した神社・神職支配の一元的系列化を策定したもので、出雲大社は「古事記」「日本書紀」などの古典に特筆される神話伝承、古代以来の格別な祭祀の伝統を主張し、これに異を唱えました。
その結果、寛文7年(1667年)5月7日、霊元天皇(御在位1663~1687年)は、古代以来、悠久の歴史を綴る出雲大社、その祭主である出雲國造(出雲大社宮司)の伝統・道統による特別の存在立場を認められ、出雲國造はこの法度に関わらず、古代以来の伝統・道統に従って、これからも永くその職に仕え、潔斎を重ねて祭祀に専修するようにとお命じになりました。
これを「永宣旨(ようせんじ)」と言い、以来、出雲國造館(千家國造館)をこの宣旨のなかにある「出雲國造は、いましすべからず永くその職を掌どるべし」より、特に「永職館」と称しています。
出雲大社奉納菊花大会の様子
神門通りの様子と商店街
神楽殿

神楽殿は1879年(明治12年)の出雲大社教創始の際に、本殿とは別に大国主大神を祀ったことに由来する。正面破風下に張られた長さ13m、周囲9m、重さ5tの大注連縄は日本トップクラスである。神楽殿では婚礼なども執り行なわれている。
神楽殿南側には高さ47mの国旗掲揚台があり、日本国内で最大の日章旗が掲げられている。旗の大きさは畳75枚分、重さ約50kgに達する。
神楽殿の様子
君が代にも歌われる「さざれ石」 日本最大級の国旗
神楽殿の入口にある社。左:祓社、右:金刀比羅宮
鏡の池(奥の松は鳥台の松)(神楽殿の西側にある。) 「おみくじ」を杉の木に結び付けている。
北島國造館

出雲大社の祭祀者である出雲國造家は、南北朝時代の康永年間に千家家と北島家の2家に分裂した。
その祭事は幕末までは両家が二分して行っていたが、明治以降は千家家が執り行っている。

明治時代に大国主大神を主祭神とする宗教団体として、千家家が出雲大社教、北島家が出雲教を主宰している。
1951年(昭和26年)4月に出雲大社と教派神道の宗教法人出雲大社教は一体化され、出雲大社の職員は出雲大社教の職員を兼務し、出雲大社宮司は出雲國造として出雲大社教を総攬し、出雲大社教の教務本庁は出雲大社の教務部として活動している。現在の宮司は84代國造千家尊佑です。

千家家(出雲大社教)~1872年(明治5年)に出雲大社宮司の千家尊福が出雲大社崇敬講社を結成。
1882年(明治15年)に政府の方針で神職教導職の兼務が認められなくなったため、千家尊福は宮司職を弟の千家尊紀に譲って教化活動に専念。出雲大社教院は出雲大社そのものから分離して教派神道の一つとなった。第二次世界大戦後、神社が国の管理から離れたことから再び出雲大社と密着する形に至った。
北島家(出雲教)~1872年(明治5年)に北島脩考が千家尊福とともに出雲大社崇敬講社を結成。1882年(明治15年)に出雲教会を設立した。第二次世界大戦後、1952年に宗教法人法に基づく独立した宗教法人出雲教となった。
出雲大社と北島國造館の間の吉野川 北島國造館前の通り
北島國造館の門 本 院
亀山会館(御札授与所) 祈祷受付所

北島國造家四脚門
(島根県指定有形文化財)


江戸時代初期にまで遡る建物で、寛文造営以前の出雲大社の建築様式を伝える貴重な建造物。

建物の形式は一間一戸の切妻造りで、屋根は杮葺き、蟇股彫刻が見られる。
向かって右から、「荒神社」(御祭神:三宝荒神)、「天穂日命社」(御祭神:天穂日命)、
「稲荷社」(御祭神:宇迦之御霊神)
「亀の尾の瀧」~この水は吉野川上流から引かれている。
瀧の名は、明治の重臣東久世伯爵が御参拝の折詠まれた歌から命名している。
池泉回遊式庭園(左の写真:奥の社は左:天神社、右:天満宮、右の写真:天神社から本院方面を写す)
   
 天神社(御祭神:少名毘古那神)  天満宮(御祭神:菅原道真公)
 島根県立古代出雲歴史博物館

これまで発見された遺跡や資料をもとに、古代出雲を様々な角度からのぞくことが出来る博物館です。
「中央ロビー」には出雲大社境内から2000年に発見された棟を支える棟持柱で、古くから「宇豆柱(うづばしら)」と呼ばれていたもので、直径が3mにもなる巨大な柱が3ヶ所で発見され、その巨大な柱が展示されています。
 「テーマ展示室」では、出雲大社、出雲國風土記、青銅器の3つのテーマから、島根の古代文化を紹介しています。
「神話展示室」では、神々の国、神話のふるさととも呼ばれる島根。「古事記」や「日本書紀」には、スサノヲのヤマタノオロチ退治など、この島根を舞台とした神話伝承を分かりやすく紹介しています。
   
島根県立古代出雲歴史博物館の建物 
   
古代の出雲大社の模型   「中央ロビー」の宇豆柱




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